2018年9月1日土曜日

人の名前が覚えられない

もの忘れが著しい。

物事の大小関わらず、出来事の一部、ひどい時にはエピソード記憶そのものがスコーンと吹っ飛んでしまう。

過去の思い出を同級生やサークルの仲間と話していても、そんな話あったかな、そもそも○○(登場人物)って誰だっけ、いやその前にその年一年私何をしていたんだったかな。時空が歪んだのかなぁ。

その割に幼い時のことは鮮明に覚えていることが多い。

留守番していて寂しくなったので車通りの多い歩道のない道路を経て約1キロほど離れた、母親が行くといっていた病院まで探しに行ったこと、近所のおばちゃんに見つけられて連れて帰ってもらったこと(3歳)、

獅子舞に頭を噛まれるのが怖すぎで母親にしがみついて頑なに拒否していたこと(3歳)、
父と兄と3人で保津峡で川遊びしたこと、売店でブルーベリーガムを買ってもらったこと、お昼のほか弁はハンバーグ弁当だったこと(4歳)、
京都タワーにおじいちゃんと兄と3人で行ってお化け屋敷に入って怖すぎておじいちゃんの体に顔を埋めて一度もおばけを見なかったこと(4歳)、
などなど


しかしどうやら最近疑っているのが、
忘れっぽくなっているということを差し引いても、元々の脳の処理がそのような構造になっているのではないか、思考パターンがそのように出来上がっているのではないかということ。
つまり幼い時の記憶というのは言語や情報が複雑になる前の出来事で、景色、色、音そういう漠然としたイメージなのだ。
それが学校へ行き始め、人間関係も複雑化してくると文字情報のインプットが多くなる。〜だからああだった、〜した結果こうなった。そうなるともうダメだ。

どうやらわたしは大人になった今でも物事を言語化せずに文字になる前の印象で全て把握しているらしい。
仕事などになるともう大変だ。

「なんか違う、けど何がどう違うか説明できない」


そしてそれは人の名前を覚えるときにも例外なく。


私は物事全て大体のことに色や硬さ、重さなどがあって、そういう印象でインプットしているらしい。例えば、あの人はこういう色の印象の人だった、名前はこういう色合いを感じる音、文字列だった。

人物像とその色や雰囲気、硬さなどの印象が実際の名前のそれと一致して入れば問題がない。しかしこれが違ってしまうともう覚えられない。
無理やりその二つを繋げていく必要がある。


かつて勤めた会社で、ある先輩がおり、どう見てもそのひとは「とおる顔」だった。
しかし実際の名前は「ケン」だった。
ケン...

とおるはもちっとしている
ケンはカリッとしている。
とおるはやわらかい
ケンはかたい
とおるはおもたい
ケンは軽い
とおるはしめっている
ケンは乾いている 
とおるは紫
ケンはオレンジ

もうダメだ、

そう思っていた時、その時の上司が言った。

「お前ケンっていうのか、嘘だろう、
とおるじゃなかったか?
どうみてもとおるだろう」


その上司はおそらくかつてヤンキーの使いっ走りだったお調子もの(メーカーの営業のくせにソフトリーゼント、しかも新入社員の営業担当のわたしにパンツスーツ禁止令を出したために油くさい工場をスカートで回らなければならなくなったという厄介者であった)という感じだったので共通点を探す方が難しいくらいだったのにあまりのドンピシャに少し驚いた。


まあ、だからこういう印象での処理は他の人も絶対持っているはずなのだ、

ただ、私が文字情報を記憶する能力が欠けているためにそれに過度に頼らざるおえない状況になっているということなんだろう。



私はこれを読んでくれているあなたにも勝手に色をつけ、名前にも色をつけ、



「あー、○○というより××という名前っぽいなあ」
と勝手に思いながら接しているかもしれません

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