2018年9月24日月曜日

独りで呑んだ話

独りでお酒を呑んだ。
あまりに過ごしやすい夜の気温に無性に鴨川で呑みたくなった。
前日からツイッターで募集をかけたが誰も捕まらなかったので、はは、相変わらず友達少ないなぁ、まぁいいか、と一人で小さなシードルの瓶と生ハムやら買って仕事場から少し離れたところまで自転車を走らせ、ちょっと広めのベンチに腰掛けた。


聞く話では昼間やたらと人が多かったというので、そして三連休のなか日というので、そこらじゅうで酒盛りが繰り広げられているのかと思ったが、ものすごく静かだった。そして真っ暗だった。

時折背後を通る人の影を街灯が長く伸ばして私のところまで届いたのでまるで真うしろに人がいるのかと何度かビクッとしたが
粗めのうろこ雲が広がる空から明るい光が出たり入ったりする様は幻想的でしばらくぼんやり眺めていた。本当の満月は明後日らしい。

一人暮らしは当然一人でいる時間が長い。
でもこんな風に風景に埋もれて静かに過ごすのは案外久しぶりかもしれない。
向かいに見えた大きな建物は府立医大病院かな、中から誰かが赤外線を使って観察してたらどうしよう。別にいいか。
川面に揺れる光を見つめてゴッホの絵みたいだなあと思いながらぼーっとした。

最近ネガポジの濁濁ばかりだったからワインでわりとお酒が周り気分良くなって左脳モードから久々に右脳モードに切り替わり気分良く自転車を漕いでかえった。

帰り道にある人から連絡きたけどもう家に向かっていたのでまたねと、そのまま帰った。
なんでもできそうな気分だったけどちょっと作業をしたら寝てしまっていた。

疲れてたんだな。


こんな日がもっとあってもいいなぁと思った日曜の夜の話。

でもまあこんなばかりだと寂しいので時々は構ってください。

2018年9月22日土曜日

土曜の朝は生温く私にまた会いに来る

外で雨がしとしと降っている。
ポタポタ水が落ちる音と
トン、トン とトタンの上に落ちるような一定のリズム。

5時48分。
また変な時間に目が覚めてしまった。
最近胃の調子がおかしい。
脂っこいものを食べているわけでもないのに胃もたれしたような感覚だ。


昨日の吉田寮も雨がしとしと降っていた。
先日の台風の爪痕、多くの木が伐採され、寮よりずっと大きな木が倒れて寮に覆いかぶさるようにもたれている。まだまだ片付けが必要な状態だ。

前回と同じ、廊下から外に向かうドアの庇の下に腰掛けてカッターナイフで5Bの鉛筆を削り始めた。
時折荷物が届いただとか、集合を呼びかける館内放送が流れる。受付の女性と思われるそっけないアナウンスが心地いい。

たまに寮生が背後の廊下を通り過ぎる 。
しばらく描いていると取材と思われる一団が機材とともに4,5名私の横を通り過ぎて外に出て行った。

外に向かって開く両開きのドアは片方が開いていて私の左側は人が通れる状態だ。
前とは違う方向を向いて描き始めた。

止まっているように見えて時折微かに動くその景色を眺めていると、何かの声が聞こえて周りを見渡した。何にもないと思ったその瞬間、開いた扉を挟んだ向こう側に動く黒いものがいた。ドアの下に10センチほど隙間があるのでこちらに向けているお尻だけがのぞいている。ここに住まう黒猫くんだ。

会うたびに軽く挨拶していたのだが今日は向こうから出向いてくれた。声をかけると
ニャア
と言って返事をしてくれる。

ぱたっぱたっと尻尾を不定期に横に揺らしながら地面をトントンしている。
機嫌は悪くなく、それとなくこっちに合図を送っている、でも触れるのにはもう少し時間が必要だ。
10分ほどそばにいて、トンッと下に降りてこちらを気にしながら私に背中を見せるように静かに去って行った。

夏の間は蚊に刺されるので1時間のスケッチが限界だったが、涼しくなったと油断したら20箇所くらい刺されて足首が真っ赤になったので1時間半で終わりにした。

足を踏み入れる前にはいつも少し緊張する。
そして外に出るときには少し自分が変化したような気分になって別の時間が流れる外の世界に出ていくかんじだ。
誰に向かってでもなく小さな声で
ありがとうございます
と言って寮をあとにした。


外が少し明らんできた。雨あしは強まっているみたい。

そろそろ起きよう。






おはようございます。

2018年9月18日火曜日

そういう問題じゃない。

仕事に行ったら休みだった。2回めだ。
朝からシャワーを浴び、かさ高い髪を乾かし、粗末な化粧をし、
先月頭から通い出した水墨画の運筆のおけいこをし、

身の回りを簡単に片付けてバタバタと家を出てきたというのに。

どうにかこの時間をムダにしないよう、仕方なくチェーン店のカフェで新品のノートとにらめっこしている
時間をムダにしないというと真っ先に浮かぶのは何かしらのアイディアを書き留めることだ、コンビニに入って適当なノートを手に取り今ジャズの流れるカフェにいる。
本当はこういうカフェは出張を彷彿とさせるので地元のオシャレたちが集まる町屋カフェもしくは日差しの入る純喫茶にでも入りたかったのだがみんなオープン時間がおそかったり改修中だったりして振られ振られて流れ着いて今小さなトーストと甘くて冷たいコーヒーを啜っている。

罫線との睨み合いは続く。
じーっと観ているとこんな無印のノートの紙にも漉き目があって縦向けに刷毛目ならぬローラー目のようなものが入っているのがわかる。

あぁ、美しいなぁ...





えーっと、構想を練るためにここに来たんだった。



...そろそろスケッチを作品にしようかな。今回はエスキースちゃんと作ったほうがいいな。スケッチ…吉田寮...そういえばこの間あの人とすれ違ったなぁ、声かけられなかったけどかけてたらどうだっただろう。声かけたあの子は久々だったしあまり話もしなかったけど元気だったんだろうか。あの人とあの人は3日連続で出会ったなぁ...



構想を...


...本当に作業するスピードが遅いな。思考スピード自体が遅い。いや、いろんなことを一気に同時に考えすぎて進まないんだ。あれもしたいしこれもしたいけど行動力も体力もないなぁ。ど根性で生きたら果たして幸せなんだろうか。でもきっとやりたいことを遂げるためにはど根性も必要だな、いやでも昨日のニュースで取り上げられてた88歳でニューヨークで活躍するジャズミュージシャンの人は練習が好きで好きでたまらないと言っていたし、無理やりやってもな。そういや誰か言ってたな。人が変わるには時間の使い方を変えるしかないって。一番無駄なのが決意を新たにするということ云々...


構想...


(ガタガタ、「おまたせー」)...今来たサラリーマン風の男性はと先に座ってた女の子は会社の先輩後輩かな。声はいいけど口調はお調子ものだわね、なんか白々しい会話が始まった、実家より独り暮らしが快適なのね。女の子の事を狙っているのかしら。先輩風がすごい。なんか前にもこんな人に出会ったような。最初に働いた会社の人かしら、それとも取引先の人だったかな、世渡り上手そうね、でもプライド高くて案外面倒くさいタイプかも...




……



お尻の下に手を敷く癖があるので手の甲にソファの布目が映ってボコボコになっている。
浮腫みやすい。





結局2頁だけ使ったノートをカバンに押し込んで店を後にした。

2018年9月14日金曜日

渡辺あやさんとワンダーウォール

近ごろ京大吉田寮にほんのりとお邪魔している。

スケッチをさせてもらっているのだ。

絵を描く行為は「画面に記録する」以上に、目と体が一体化して、ものすごい量の情報や経験を吸い込むことができる手段だと思っている。
つまり私はそのためにも出入りさせてもらっているのだろう。あの空気を吸いに行っているのだ。


9月末に京大から退去期限を通告された吉田寮をモデルとしたNHKの京都放送局発ドラマ「ワンダーウォール」がBS放送され、小さなムーブメントはツイッターなどで拡散されて広がりをみせておりついに再々放送が地上波でされることが決まった。

吉田寮内もイベントが活発化し、寮生が一般の人に寮内を案内するツアーを行ったり、これまでに関わってきたミュージャンが食堂でライブを行い、それをたくさんの人が見に行くとなど、それぞれがそれぞれの方法で問題を大きくし、より多くの協力を集めながら寮を守ろうとしている。


吉田寮は寮だ。

だからあくまで寮に住まう人たちが主役である。
しかしすでにその存在は単なる寮を超えてそれを守ろうとしている人それぞれのなにか「大切なもの」の象徴となっている。
吉田寮を守ることは、ムダがとことん排除される世の中で、なんとか「ムダ」の中に含まれる大事なもの、それぞれの心の居場所を確保することそのものであり、それぞれが当事者意識をもって行っているように思えるし、きっと外部とのコミュニケーションが苦手な住人たちでも最後の手段としてそれを受け入れることで取り壊しを阻止しようと積極的に動いている。

わたしもなにやら自分自身がぽっかりと空いたこのタイミングで出会うべくして出会ってしまった、そんな感じだ。



ワンダーウォールの脚本を手がけたのは、朝ドラのカーネーションの渡辺あやさん。


渡辺あやさんの作品との出会いの初めは、「ジョゼと虎と魚たち」だった。

なんとなくレンタルしたのだが、正直、当時私の好みではなかった。覚えているのは江口のりこさんがすごい女優だなぁと思ったくらい

そこからしばらくあいて次はテレビで放送されていたドラマの「火の魚」。

これはなんだか観た直後はそれほど大きな衝撃ではなく、じわじわ印象に残って離れなくなった。わたしはこの作品で初めて尾野真千子さんを知った。
その時の演技がとても印象的で。

彼女はカーネーションの主役も務めた。

その時の演技も素晴らしかった。他の俳優さんの演技も素敵だった。
そしてやはり脚本がよかったのだ、どうしても離れないシーンがあった。

戦争から帰ってきた心を病んだ幼馴染の母親(濱田マリさん演じる)が主人公の尾野真千子演じる糸子の家に土砂降りと雷の中すごい形相で怒鳴り込んでくるシーン。


あんたあの子になにゆうたんや、あんたの前向きさは今のあの子には毒や


というかんじのセリフだったと思う。その時の濱田マリさんの演技はもの凄い迫力だった。

また、さらに、印象的だったのは、糸子がそのことにショックを受けつつも、

私は私で生きて行かなあかんねん


と、それを振り払って進んで行くのである。


視点が行ったり来たりする。

それぞれの気持ちがあってどうしようもなくそうなっていってしまう、
ワンダーウォールもそんなドラマだ。
明確な悪者は描写しない。
でも何かそれぞれが考えさせられるものになっている。
物語の核から、そして小さなエピソードのひとつひとつから。


それぞれが渡辺あやさんの脚本、ということは実はつい最近知った。



わたしが心掴まれるもののツボのなかで自分自身自覚がある感覚、

それは映画やドラマに限らず。
わたしはその感覚を「透けた眼差し」と呼んでいる。
目の前の社会のことを見透かしてもっと向こう側を捉えている。虚無感であり、自由であり、命や宇宙といった身近で遠いものの存在と、それを映す小さな現実だ。


渡辺あやさんはそういうものを丁寧に描こうとする脚本家、なのだと思う



脚本、演技、監督

全ての人にその視点がある時、
奇跡的に生まれるもの。

そういうものは最近少なくなってきているのかもしれない。大人の事情をなぎ倒してでも良いものを作りたい、という熱量。

そういった意味でもワンダーウォールは貴重な作品だ。



整然とした綺麗でわかりやすい形を求められる世の中ですうっと消えてしまいそうななにかを
消えないで!と手の中に握り締めようとする気持ちが今回のこの吉田寮を取り巻く一連の動きに働いているように感じる。
私などは求心力も説得力もあるわけでなく吹けば消える小さな存在だが、「人が何かを思う」ということはそれだけですごいことなのだと常々考えているので、私の気持ちが動いていることも自分なりに尊重してみようと思ったのだ。



来週の月曜日、今から3日後、

地上波での放送、楽しみにしている。

9月17日(月・祝)ドラマワンダーウォール

NHK総合
14時〜

わたしもテレビがないので今回は実家に帰って観ます。

2018年9月1日土曜日

人の名前が覚えられない

もの忘れが著しい。

物事の大小関わらず、出来事の一部、ひどい時にはエピソード記憶そのものがスコーンと吹っ飛んでしまう。

過去の思い出を同級生やサークルの仲間と話していても、そんな話あったかな、そもそも○○(登場人物)って誰だっけ、いやその前にその年一年私何をしていたんだったかな。時空が歪んだのかなぁ。

その割に幼い時のことは鮮明に覚えていることが多い。

留守番していて寂しくなったので車通りの多い歩道のない道路を経て約1キロほど離れた、母親が行くといっていた病院まで探しに行ったこと、近所のおばちゃんに見つけられて連れて帰ってもらったこと(3歳)、

獅子舞に頭を噛まれるのが怖すぎで母親にしがみついて頑なに拒否していたこと(3歳)、
父と兄と3人で保津峡で川遊びしたこと、売店でブルーベリーガムを買ってもらったこと、お昼のほか弁はハンバーグ弁当だったこと(4歳)、
京都タワーにおじいちゃんと兄と3人で行ってお化け屋敷に入って怖すぎておじいちゃんの体に顔を埋めて一度もおばけを見なかったこと(4歳)、
などなど


しかしどうやら最近疑っているのが、
忘れっぽくなっているということを差し引いても、元々の脳の処理がそのような構造になっているのではないか、思考パターンがそのように出来上がっているのではないかということ。
つまり幼い時の記憶というのは言語や情報が複雑になる前の出来事で、景色、色、音そういう漠然としたイメージなのだ。
それが学校へ行き始め、人間関係も複雑化してくると文字情報のインプットが多くなる。〜だからああだった、〜した結果こうなった。そうなるともうダメだ。

どうやらわたしは大人になった今でも物事を言語化せずに文字になる前の印象で全て把握しているらしい。
仕事などになるともう大変だ。

「なんか違う、けど何がどう違うか説明できない」


そしてそれは人の名前を覚えるときにも例外なく。


私は物事全て大体のことに色や硬さ、重さなどがあって、そういう印象でインプットしているらしい。例えば、あの人はこういう色の印象の人だった、名前はこういう色合いを感じる音、文字列だった。

人物像とその色や雰囲気、硬さなどの印象が実際の名前のそれと一致して入れば問題がない。しかしこれが違ってしまうともう覚えられない。
無理やりその二つを繋げていく必要がある。


かつて勤めた会社で、ある先輩がおり、どう見てもそのひとは「とおる顔」だった。
しかし実際の名前は「ケン」だった。
ケン...

とおるはもちっとしている
ケンはカリッとしている。
とおるはやわらかい
ケンはかたい
とおるはおもたい
ケンは軽い
とおるはしめっている
ケンは乾いている 
とおるは紫
ケンはオレンジ

もうダメだ、

そう思っていた時、その時の上司が言った。

「お前ケンっていうのか、嘘だろう、
とおるじゃなかったか?
どうみてもとおるだろう」


その上司はおそらくかつてヤンキーの使いっ走りだったお調子もの(メーカーの営業のくせにソフトリーゼント、しかも新入社員の営業担当のわたしにパンツスーツ禁止令を出したために油くさい工場をスカートで回らなければならなくなったという厄介者であった)という感じだったので共通点を探す方が難しいくらいだったのにあまりのドンピシャに少し驚いた。


まあ、だからこういう印象での処理は他の人も絶対持っているはずなのだ、

ただ、私が文字情報を記憶する能力が欠けているためにそれに過度に頼らざるおえない状況になっているということなんだろう。



私はこれを読んでくれているあなたにも勝手に色をつけ、名前にも色をつけ、



「あー、○○というより××という名前っぽいなあ」
と勝手に思いながら接しているかもしれません