2020年8月4日火曜日

0801

わからん屋のクラファンのリターンを制作するなどしています。
あと少し。

流石に部屋に引きこもりすぎな今日この頃。
いくらコロナ禍とはいえ環境変わらぬと脳にも新鮮な空気が入ってこなくていけない。
おんなじことをうずうずと考えては意味ないとわかっていてもやっぱりうずうずとしてしまうものだ。

仕事もだけど、勉強は特に人の気配があったほうが捗る方で、脳のどこかを何か自分にとって意味のないもので埋めてくれないと、全く役に立たない(創造的なものに生かされない類の)変な妄想などで気が散ってしまう。今日は夜しなければいけなかった作業のみ終わらせて、読みかけだった本を集中して読むためにえいっと西陣のさらさに向かうことにした。

さらさといえば町家カフェの走りのような存在で、ちょうど私の学生時代には京都の若者の青春の象徴のような存在だった(ちょっと自分には入っていけない場違いなキラキラ感を感じた部分もあったけれど)。しかし私は京都の大学に憧れつつも、滋賀の大学に行ってしまったので、京都で青春を送れなかったことを今でも後悔している。

割と家からすぐ行ける場所(自転車で10分弱)なのに西陣に越してから1度しか行っていなかった。なんとなく昔と変わってしまったイメージを勝手に持っていたので。
しかし先週すごく久々に行ってみたらちょっと違っていた。作業もしやすく、隣との距離もそれなりに確保されていて、食器も素敵で、今は今でとてもいい雰囲気。これは時々来てみたいと感じてた。

西陣のさらさは元銭湯を改装した、さらさの中でも特徴的な店舗で、全面に貼られたマジョリカタイルがそれは美しい。もともと女湯と男湯を隔てていた壁を中途半端な形で崩してあり、また、それぞれの脱衣所も含めて4ゾーンに分かれており、うち一つが厨房となっている。先日のソファ席側がそれなりに混んでいたので別の方のテーブル席に着いた。
隅っこの席は落ち着く。ほどよい人の入れ替わりなどでそれなりに読書も捗った。
コーヒーとクッキーを注文してごくりと飲む。ほっこり。

1990年代〜2000年くらいの京都の若者文化は私の憧れだった。今はもうあまり感じない空気だけど、昔したくてもできなかった楽しいこと、憧れだったことがある。
今やっていってもいいじゃないか。当時あんな年上の人がいいなあ、と思っていたことを自分がやってもいいじゃないか。あの頃あの店にいて欲しかった大人を目指してもいいじゃないか。そんなことをふわりと思った。

思えば、当時憧れだった生活が当時よりもずっと自然に身の丈に合っている。住みたい土地の狭いアパートで好きなものに囲まれて暮らし、創作のことを考えたり料理をしたり。
特別だった場所が生活の一部になっている。
私は幸せなのかなあ。何か決定的なものが欠落している感じがするが、それ以外は満たされているのかもしれない。それ以外は…


帰り道は生温く、くねくねと蛇行しながら自転車を漕いだ。
絡み合う電線で途切れ途切れになる月とその側にある明るい星を眺めながらエレカシの「今宵の月のように」の鼻歌を歌いながらゆらゆらと帰った。
実際にそうだったのかはわからないけれど、コンタクトを入れてもそれなりの視力の私には満月に見えた。
「新しい季節の始まりは夏の風街に吹くのさ」
今に、そして今の自分にぴったりの曲で少し笑ってしまった。いい歌だなあ。