2019年9月7日土曜日

夏終わり

百日紅が色褪せてしまう。


鴨川沿いの風も夕方になるとひんやりしてきて、ここ数日夏の暑さが少々戻ってきたとはいえ、やはりもう空も虫の声も人の浮かれ具合の収束も全部季節が変わったことを知らせている。


この1週間でいろんなことが起こって今それも落ち着いてきて何もかもが元に戻っていく。気温の下降とともに自分の中のほとぼりもスーッと静かになっていく。ああ、自分だ。
ただ、以前と違うことに、体調はいい。落ち込みたくても悲しみたくてもそんな感傷に浸るな、動け、と体に言われている。ご飯が食べられなくても夜長時間眠れなくても体はいたって健康だ。それはとてもしあわなことだ。(...しあわせ?)
とにかくこれが大人になったということなんだろう。自分のなかで消化しきれていない子供を抱えながらもどこか大人になっている。

昨日元職場の後輩とその子供に会った。娘ちゃんは私と誕生日、血液型、星座(当然)、干支がすべて同じ。でも全然私と似ていなくてとても人懐こいカワイイ子だ。私に似ろと暗示をかけているというので全力で止めておいた。(悪いことは言わない。)もともと私は子供と接するのは苦手だったのにとてもかわいく感じた。自分自身の中にもまだ子供はいるというのに。

今月末には2年間続けたバイトも辞めて、以前していた仕事に近いことを数ヶ月くらい続けるつもり。なんだかそれも暗示的というか、しばらくの出来事がすべて幻だったかのようだ。次に私の上司になる女性は回遊魚のようで止まったら死んでしまうのではないかというくらい常にバタバタと動いていて、刺激がないとつまらない、と本人もそれを認めている。私はあんな風になれるだろうか。いや、なるつもりもなれるわけもないけれど、私より一回り歳上の彼女は海外に彼氏を残し、結婚したくないからと渡米するのを拒み続けて結局20年以上付き合ったその人と最近別れたという話をサバサバと話してくれる。こんな風に逞しくなれたら、と思うとともに、私はこの人と同じ年齢になった頃一体どんな生活を送っているんだろう、とも。

感傷に浸るなとはいってももう私を形作っている素地の部分には虚無感みたいなものが常に含まれているので今更絶望なんかはしないけれど、この間ある人に思わず寂しいという言葉を使ってしまって自分でも驚いた。その人は常に根底にあるのは虚無感で、寂しいというのは健康的だといわれた。そういえばずっと私は虚無感に苛まれていたのにこんなこといってしまうなんて、つまり何かが「ある」からなくなった時に「さみしい」と感じるわけで。いつからか気付いた自分のなかの二重人格性みたいなものでどちらも出たり入ったりする。

虚無感に包まれている時というのはなぜもこんなに物事を冷静に見つめる眼差しが生まれるんだろう。いろんなことがとてもクリアに見える。皮肉なものだ。

さみしい時は人を求めるし、誰もいなくなったらしくしく泣いて大人しく制作を始めるなんて素晴らしいことじゃないか。きっと創作しない人はずっと次が現れるまで寂しいままなんだろう。

私は自分が一回死んだと思っているので、なんだかんだといっても小さなことでもしあわせだ。これは本当に。もともと一人なんだって覚悟してしまえば世界は美しいな、と思えるし、一つ一つが大切に思えてくる。しかし今回は初めて人に頼ってみた。これは進歩だ。すごく良かった。こんな風に冷静でいられるのはちゃんと気持ちも弱音も口に出して自分で受け止めたし、いろいろ質問されて少しずつそれにこたえることによって整理できてきたから。ひとしきり甘えて迷惑かけたのでちゃんとお礼を言ってお返しするつもり。


どんな風にしても生きていけるよ。



大丈夫。もとにもどるだけだ、私も強くなってる。
こんな独りよがりな気持ちをブログに記録して何をカッコつけてるんだ、って後から笑い飛ばしたい。



ワンマンにむけて集中します

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