麻紀さんが死んでしまった。
麻紀ちゃんこと野村麻紀さんのが亡くなったのを知った日、2カ所の場所へ出向く選択肢があったが、原因不明の強烈な頭痛と吐き気に襲われてそのまま一人で過ごした。体のしんどさもそうだったけれど、そこをおしてでも行かなかったのは別の感情があったからだと思う。
どちらに出向いたとしても、みんなから愛された麻紀さんの死を悼む人々がたくさん集まっている。私もよく顔を合わせたとはいえ、二人で遊んだことや深く話したことなどなかった。きっとその場所に行けば悲しむみんなの話を聞くだけで自分の気持ちを抑えなくてはならない気がしたのだと思う。私が悲しむのがなんだか申し訳ないような気持ちになってしまっていただろう。体の不調、心の引っ掛かり、どちらかでもなければ行っていたかもしれないけれど、こうなったのは運命としか言いようがない。私は静かに自分の中の麻紀さんと向き合って過ごすことにした。もしかしたら後から後悔するかもしれないけれど。
麻紀さんにまつわる今更の後悔は尽きないし、きっとみんなもそうだったと思う。私は正直、いっとき麻紀さんと関わるのが怖かった。あることでライバル心を持たれているのがわかったし、それは彼女の見当違いの部分が多分に含まれていたし、麻紀さんとは話す前から遠い憧れの人だったから私が麻紀さんに歌うたいとしても人間としても敵うはずない、何を言ってるんだろう、と思っていたけれど、ごく最近、少し仲良くなれそうな気がしていた。女同士の話をしてみたかった。分かち合う気持ちがあると思ったのに。
麻紀さんとの思い出といえば、麻紀さんと話すようになってごく始めの時は私の「ガラクタ」という曲を気に入ってくれて「ポケットの〜なか〜の〜」とコブシの効いた節回して歌ってくれた。ある時からはいつも私のしていた黒くて丸い大きなピアスを「あさま山荘の鉄球」と呼んでくれた(ボロボロになったので最近はしていなかったけれど)。麻紀さんの異名、「京都の歌姫」とかけて私に「京都の嫁」と名付けれくれたこともあったな。
いろんな人の麻紀さんとの思い出がTwitterのタイムラインに流れてきて、麻紀さんでいっぱいになった。近づきがたい美しさの若い頃の麻紀さんもたくさん流れてきて、仲良くしてもらった親しみやすい印象とはまた違った、憧れの遠い存在の麻紀さんだった。
麻紀さんが亡くなってまだ1週間も立っていないというのに、その事実は私の何かをしっかりと変えたと思う。
私はやっぱり描くしかないって思い始めたこの頃の気持ちをさらに強く後押しした。
明日死ぬかもしれない。私は麻紀さんのように自分が納得するほど何かを成し遂げたことがあっただろうか。本人は否定するだろうけれど、彼女の音源やみんなの悲しみは確実に彼女の成したことの大きさを突きつけるものだった。
何かを成し遂げないと生きている意味がないなんていうことは全く思わないけれど、せめて今自分の中にあるものくらいは形にしてみたい。このモヤモヤとした人生が少しは変われるかもしれない。
私は過去の自分の選択について一つ大きな後悔をしているけれどももし生まれ変わったら迷わず京都の美大を目指し、もっと早くに歌い始め、あの頃の京都でマキさんの近くの空気の中に入り込む青春を送りたいと思う。
それでも麻紀さんの人生の最後少しだけ関われて良かったと思います。
亡くなってからも麻紀さんから学ぶことは感じることは多いのだろうな。
世の中にはマキさんを知らない人の方が多いのだし、麻紀さんを知らない人にとってはコロナを除けば変わらず日常の1日だったのだろうけれど、私にとっては、時代が一つ、終わった。そんな気がします。
思い出というのは救いでもあり残酷で、麻紀さんに嫌われてるんではないかと怖かったこととか全部どっかに言ってしまって、悪い思い出さえもキラキラと、良い思い出はさらにキラキラと写ってしまって、ボロボロ泣いてしまったりするだろう。
私の直近のライブをマキさんは見にきてくれていて、Twitterで私の写真とその日を楽しんでくれている様子をあげてくれて私はそれをリツイートしたんだけれども、時間が経つにつれてそれがどんどん流れていって消えていってしまうのが悲しくて、部屋にはつい1ヶ月前の麻紀さんの誕生日イベントに出た時にもらったたくさんの飴ちゃんがそのまま置いてある。麻紀さんのサイン入りCDや、「あさま山荘の鉄球」ピアスの壊れたパーツや。
今も「野村麻紀」「麻紀ちゃん」とかで検索すると、みんなが麻紀さんについてつぶやいている。
私は相変わらず湿っぽいから遠くで麻紀さんは辛気臭そな顔をしているだろう。
それとも私のことなんて気にしてくれないだろうか。
亡くなってもなおみんなに影響を与え続ける麻紀さんはこうやって永遠に手の届かない憧れになってしまったけれど私は私の足を絡め取る執着を全て捨てて自分の足で歩きたいと思います。
バイバイマキちゃん